⑭ 手術

午後からの手術だった。

朝から何も食べることはできず、病室でただ時間が過ぎるのを待っていた。時計を見るたびに、まだこんな時間かと思った。手術までの数時間は、普段よりずっと長く感じられた。

夫は朝からずっと付き添ってくれていた。会話はしていたはずなのに、何を話したのかはほとんど覚えていない。それよりも、手術が近づいてくることばかり考えていた。

予定の時間になっても、なかなか呼ばれなかった。

前の人の手術が長引いているのだろうか。

そんなことを考えた次の瞬間、別の不安が頭をよぎった。

先生は疲れていないだろうか。

もし失敗したら。

考えてもどうにもならないことばかりが浮かんできた。手術を待つ時間は、体よりも心のほうが落ち着かなかった。

ようやく名前が呼ばれた。

私はベッドではなく、自分の足で手術室へ向かった。

廊下を歩きながら、ふと昔のことを思い出した。

父が手術を受けたとき、私は付き添いとして同じように手術室まで見送ったことがあった。そのとき見た光景を、今度は自分が歩いている。

あのときは見送る側だった。

今日は、その扉の向こうへ入っていく側になった。

手術室の前で、夫と別れた。

ここからは一人だ。

呼ばれるまでの間、待合の椅子に座った。肩にはバスタオルを掛け、うつむいていた。不安だった。怖かった。

そのとき、一人の看護師さんが私のそばへ来た。

「緊張してますか?」

そう声を掛けると、両肩にそっと手を添えてくれた。

「大丈夫ですよ。目が覚めたら、がんは無くなってるから。」

その言葉を聞いた瞬間、張りつめていた気持ちが少しほどけた。

うれしかった。心からほっとした。

今でも忘れられないのは、その言葉だけではない。肩に触れてくれた看護師さんの手だった。とても温かく、不思議なくらい安心した。

やがて手術室へ入った。

想像していたよりも、そこは明るく落ち着いた空間だった。壁はベージュを基調に、ところどころに淡いグリーンが見えたのを覚えている。

手術台に上がると、思っていたより少し幅が狭く感じた。

主治医が声を掛けてくれた。

「緊張してる?」

そして、こう続けた。

「大丈夫です。まかせてください。」

診察室で何度も会ってきた、いつもの先生だった。その見慣れた顔を見た瞬間、不思議と安心した。

看護師さんが心電図をつけ、続いて酸素マスクを口元に当てた。

「ああ、これが空気を送ってくれるのか。」

そう思った。

とうとう来たか。

左手には麻酔の点滴の針が入った。

「最初は冷たいものが通る感じがしますけど、大丈夫ですよ。」

その言葉どおり、左手から冷たいものが流れていく感覚があった。

「数を数えてください。」

そう言われた気がする。

いくつまで数えたのかは覚えていない。

次に目を開けたときには、私は回復室のベッドの上にいた。

担当の看護師さんが迎えに来てくれた。

「痛みはどれくらいですか?」

そう聞かれ、私は「5です」と答えた。

すると看護師さんはすぐに点滴へ痛み止めを入れてくれた。

そのままベッドのまま病室へ運ばれた。

こうして手術は終わった。

夫はその間、ずっと一人で待っていてくれた。

私にとっては、一瞬眠っていただけのような時間だった。

目が覚めたとき、がんはもう私の体にはなかった。

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この記事を書いた人

50代会社員。
お金、働き方、人生のこと。

答えを探しながら、
凪の森を書いています。

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